5月
28
2018
相談者:法務ズ先生、父親が亡くなったので、遺産を分けたいんですが、兄が行方不明で困っています。
法務ズ:所在不明になって、何年になるかな。
相談者:5年くらいが経ちました。子どもがまだ小さかったのに、突然、
蒸発してしまいました。
法務ズ:そうですか。手紙とか何か手がかりはありますかな。
相談者:いいえ。全くわかりません。こんなときはどうすればいいんですか?
法務ズ:失踪宣告という制度はあるが、7年以上、行方不明であることが要件なので、
お兄さんの場合はこれを満たしていませんな。
でも不在者財産管理人を選任する方法がありますぞ。
相談者:不在者…何とかってなんですか?
法務ズ:行方不明になっているお兄さんについて不在者財産管理人を選ぶよう
家庭裁判所に申立て、この不在者財産管理人に遺産分割協議に加わってもらうんです。
相談者:兄の相続分はなしということで同意してくれますかね。
法務ズ:それは無理ですな。
お兄さんの相続分は不在者財産管理人が管理することになりますが、
例えば、失踪宣告の要件を満たしてから、再分配が必要になるのです。
相談者:面倒ですね。
法務ズ:さよう。だから相続人に所在不明者がいる方は、ぜひとも遺言をしておくべきですな。
5月
26
2018
土曜日の午前。
今日は家族が事務所の掃除に来てくれています。
昼から打ち合わせが2件。
平日仕事で休めないからとか
夜遅くでないと事務所に来られない方もおられるので、
週末に打ち合わせを入れたりします。
のんびりと準備をしていると
法律相談の申込みが1件。
そうこうするうちに土曜日は終わっていきます。
どうしても依頼者は神経を使うことになりがち。
お互いできるだけのんびりしたいものです。
5月
17
2018
事務員:法務ズ先生、新聞の折り込み広告をデザインしました。
法務ズ:どれどれ。なんとも爽やかなチラシですな。
事務員:5月28日の中日新聞に入れようと思います。
法務ズ:頼みます。
事務員:地域のコミュニケーション雑誌「カヤット」にも広告を出す予定です。
蟹江町出身の弁護士だということを地元の人に知ってもらいたいですね。
法務ズ:蟹江で法律相談会を開こうと企画してから、やたら蟹江のことを考える時間ができましたぞ。
テレビの「あいつ今何してる?」という番組みたいに
蟹江の町も当時の同級生も懐かしく思える。
事務員:先生、同窓会ではないんですから、ちゃんと法律相談をしてきてくださいね。
法務ズ:わかってますぞ。ちょこっとだけ地元に恩を返しましょうか。
5月
13
2018
ゴールデンウィークは京都の洛北の青もみじを見て回った。
修学院離宮は本来であれば、宮内庁に事前予約が必要なところだが、
当日予約できないかと受付に行ってみると
案外簡単に予約をとることができた。
下離宮、中離宮、上離宮と案内され
上離宮では広大な池泉回遊式庭園を山の中腹から眺め
そして、池の周りをぐるりと散策した。
その池に千歳橋という名の石橋が架けられていた。
中国風のどこかで見たことのあるような橋だと思い、
妻に池下の揚輝荘にある橋に似ているという話をしていた。
名古屋に帰ってから揚輝荘について検索すると
揚輝荘の白雲橋は千歳橋を模したとあった。
なるほど似ているわけだ。
白雲橋を作った竹中工務店は
江戸時代から修学院離宮に入る資格があったとか。
揚輝荘を作った松阪屋初代社長と竹中工務店でどんなやりとりがあったのか
想像すると面白い。
5月
05
2018
京都のライトアップシリーズの第2弾。
今回は天台宗青蓮院門跡。
5月2日、仕事を終え、のぞみで京都へ出発。
午後7時すぎに京都駅に着き、急ぎ青蓮院に向かう。
昨年の秋の東寺と同じく雨が降りしきっていた。
樹齢800年というクスノキの荘厳さに圧倒されながら
門をくぐると闇と光の世界。
庭に蛍の光のような青い光がきらめき
そして消えていく。
まるで時間が止まっているような空間だ。
夜景が雨に濡れて
柔らかく心を包んでいく。
光の中でながめる庭とは違う表情だ。
しばらくはライトアップシリーズが続きそうだ。
4月
30
2018
相談者:法務ズ先生、母が亡くなって母の持ち家を相続したんですが、相続税がかかるか相談してもいいですか?
法務ズ:いいですぞ。お父さんはご健在ですか?
相談者:いいえ。先年なくなって母一人で生活していました。相続人は私だけです。
法務ズ:相続財産には何がありますかな。
相談者:50坪ほどの自宅と預貯金が少しばかりあります。
駅前のいい場所ですから、地価も高いですし、合計すると基礎控除額を上回ります。
そこで、小規模宅地の家なき子の特例が使えれるか相談したいんです。
法務ズ:小規模宅地の家なき子の特例が使えるには
① 配偶者も同居していた相続人もいないこと。
② 3年以上、自分の持ち家に住んでいないこと。
③ 相続が発生した日から10か月間は所有し続けること。
の要件を充たさんとな。
相談者:父が亡くなったとき、母の相続を考えて、自宅を子に譲っておいたんです。
もう3年以上経っていますので、②の要件を充たしています。
法務ズ:用意周到な話じゃ。しかし、平成30年の改正で不動産名義を工夫して
家なき子の特例を使う方法は禁止されたので気をつけてくだされ。
ただ経過措置があるので、ぎりぎりセーフですかな。
4月
30
2018
私が生まれ育った芝切は、日光川と佐屋川で挟まれた地区にある。
佐屋川といっても日光川の三日月湖のようなもので、
海には通じていなかった。
佐屋川を渡って芝切りに入るには
蟹江駅方面からだと霞切橋
舟入からだと夜寒橋を渡ることになる。
霞切橋は佐屋川の川幅が狭くなったところに架けられており、
江戸時代の絵図にも霞切橋が描かれている。
霞切橋とか夜寒橋とは何か情緒のある名前である。
小学生のころまでは
芝切の実家から日光川までは田んぼだけで何もなかった。
一面の田園風景であった。
ところが中学生になるころから、次第に田んぼが埋め立てられ
急速に住宅が建っていった。
昭和40年代から昭和50年にかけて
蟹江は名古屋のベットタウンへと変わっていった。
日本の各地で見られたのであろうが
平成ぽんぽこたぬき合戦のような情景が蟹江にも起きていた。
4月
30
2018
蟹江の舟入地区は昭和30年ころまで漁業で栄えた地域だった。
蟹江川を下ると日光川と合流し、伊勢湾に注いでいる。
河口に近づくとほのかに磯の香りがしたのを覚えている。
舟入の漁師は、伊勢湾沿岸や日光川・蟹江川で漁をしたらしいが、
私の記憶の中にはない。
舟入あたりの蟹江川には
崖屋造りのような建物が堤防から川にはみ出すように家が建てられていた。
川から直接、荷揚げするのに使われたらしいが、
私が小学生のころは
八百屋だとかいろいろな店が立ち並んでいたとように覚えている。
昭和34年9月の伊勢湾台風は蟹江の町を大きく変貌させ
舟入の漁業も衰退させた。
当時、私は3歳であったのでよくわからないが、
伊勢湾台風と急激な都市化の波が
蟹江の町を変えていったように思う。
4月
29
2018
フナの新子を「新ばえ」と言ったが、
この新ばえを甘露煮にして
寿司飯のうえに角麩と並べて押し寿司にした郷土料理があった。
一般的にはもろこ寿司と呼ばれる料理だが、
蟹江では新ばえを使うことが多かったと思う。
祝い事があると作られたようだが、
幼い私はフナの苦みが苦手で、そんなに好きではなかった。
フナは身近な川魚だったので
子どもでも簡単に新ばえを網ですくえた。
はっきりした記憶はないが、
田植え後の春祭りとかに出されていたのではないだろうか。
4月
29
2018
私が生まれ育った蟹江の自宅は、
隣家に井戸があって、
夏にはスイカを冷やして食べたものだ。
この井戸の他にも部落用の井戸があり、
その井戸からは冬場、湯気が立ち上っていた。
おそらくこちらの井戸の方が深かったのではないかと思われる。
大人たちがここを掘ったら、きっと温泉が湧くと言っていたのを覚えている。
そして、小学生になったころ、蟹江に温泉が湧いた。
尾張温泉の始まりである。
当時は遊園地も作られ、歌謡ショーもあって
こまどり姉妹、いとしこいしも生で見た。
農家の人たちが従業員として働き、活気があった。
蟹江にも高度成長の波が押し寄せていた時代である。